「out of noise」における「hibari」と「to stanford」が意味するもの

out of noise

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一曲目の「hibari」はいわゆる「energy flow」的ポップスになりそうな導入部のフレーズが延々と反復される構造になっている(微妙に長さの違う同じフレーズのループが左右で繰り返され、その二つが微妙なずれを生み出していく)。ユリイカ臨時増刊「坂本龍一特集号」のインタビューで本人は、AフレーズからBフレーズに展開しようとすると頭の中でストップがかってしまったと、この楽曲の構想に至るまでの葛藤の様子を回想している。
そのプロセスに沿うように、二曲目以降も、ポップス的な構造に抗うようにあらゆる音素材を幾何学的に配置したようなミニマルな音世界が作り上げられている。だが終盤(11曲目)に収録されているのは、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組のオーディションで発掘したアーティスト、コトリンゴ作曲のポップナンバー「to stanford」のカバー。
彼はこの曲のデモを聞いた当初からラジオ番組の中でも彼女のことを絶賛しており、以来彼女のバックアップに力を注いでいる。2008年には自身がプロデュースしたコンサートに彼女をゲストで迎え、この「to stanford」をデュオで演奏している。
このようにポップスの構造を意識的に排した「hibari」と、ポップスの構造を持った「to stanford」が同じアルバムに収録されていることに疑問を持った私は、この二つの作品の同居が「out of noise」においてどのように正当化されたのかその経緯を推考してみた。
そもそも彼のポップスへの懐疑心はそういうものを意識的に制作していた頃から既に存在していただろう。現に90年代のYMO再結成の頃に出版された再結成に至る発言集「テクノドン」で”あるポップスのCDをプレイヤーにかけて、サンプリングする価値もないと判断するとそのCDを投げ捨ててしまった”と言うエピソードが他のメンバーから聞ける。その後に制作したアルバム「Sweet Revenge」や「Smoochy」がセールス的に振るわなかったのも、その根底にあるアンチシズムやポップス構造に対する虚無感、当時の音楽的立場が妨げになっていたせいではないだろうか。
それに輪をかけるように彼の目論見に反して起きた現象が「energy flow」のヒットである。この時に彼は悟る。いかに作者の思考というものが一般的な受け手にとって音楽伝達の妨げになってしまっているのか。いかに人が芸術というものに己の思考を持って鑑賞しようとしていないのか。そう、一般的にポップスというものは”AからBへ”といったメロディの構造とは全く別の次元で認識されており、それは断片的であれどメロディを無意識下にある受け手にどれだけ浸透させられるかでポップスか非ポップスに振り分けられているのである。
「hibari」が流れ始めた時、その世俗的なメロディに私は落胆しかけたが、そのテーマがディレイのように左右で繰り返された瞬間に「なんて自虐的で世の中を皮肉った作品だろう」と彼のユーモラスなひねくれ根性を愛おしく思った。つまりはこのような非ポップス的な構造をもった作品であろうとテレビのCMで断片的に聴くことが出来れば、すんなりとポップスという認識で受け入れられてしまうだろうという一般的受け手に対する嘲りのような感情がこの作品には込められているのだ(記憶が定かでないが、私はこのメロディをテレビCMか何かで一度耳にしたが、こんな特殊な作品だと気付かなかったし、だからこそアルバムがこの曲で始まるとすぐに嫌悪感を抱いたのだ)。そして更に自虐的なのは、その坂本的なメロディ構造を持った他人の曲を自分のアルバムにカバーとして収録してしまうという行為である。確かにコトリンゴは、確固たる歌唱力と演奏力を持ち合わせた優秀な音楽家だと思う。彼が絶賛しているのも本心からだろう。しかしながらこの楽曲に関しては、坂本龍一の音階構築の手法無くして生まれ得なかった作品であることは否めない。彼にしてみれば、このようなメロディ構造が人の感情を揺さぶることは周知の事実であり、それは既に一つの作曲の技法として多くの作り手に備わっている、だから自分でわざわざ作曲をしなくても量産され氾濫している坂本流ポップスの中から優秀なものをピックアップして自分の作品に取り入れてもいいではないか、というゴーストライターの存在を前もって暴露してしまうような芸術家らしからぬ醜態を堂々と晒しているのだ。(断っておくがこの「to stanford」という作品は坂本的手法を取り入れているいないに関わらず楽曲として大いに魅力があり、多くの人に受け入れられるべきであることは確かである。この曲と作者であるコトリンゴはこのアルバムが持つニヒリズムやアンチシズムという思想には直接的には何ら関係はない。)
だがそのポップス的手法自体をを批判する「hibari」の存在がこの芸術家らしからぬ行為を芸術的な表現に至らしめている。つまりは「hibari」と「to stanford」という対照的な二曲を同じアルバムで衝突させることで彼の音楽活動で過去最大級のアンチシズムの爆発を起こしているのである。滅多に人のカバーをしない彼がこともあろうに自分の影響を受け自分が育成した作り手の作品を自らの作品に昇華させてまで表現したアンチシズムとは一体何なのだろうか。それはYMOで音楽に対する価値観を一転させ、それ以後も自らモルモットとなって音楽という実験を己の身に投じてきたその成果が何の思慮もなく摂取されていく世の中に対する絶望と、相反して向上する一部の作り手(受け手)意識よって音楽が音そのものとの境界を超えて自然体の表現として円熟期に差し掛かったことに対する希望が永遠に交わらないかのように平行線を辿りながら同居している音楽社会の現実そのものであろう。そんな矛盾に満ちた世界をポップス的な素材を解体して構成した非ポップスと他人が作った高水準なポップスで表しているのだ。
今批評は特に相反する二つの楽曲を取り上げて書いてきたが、アルバム全体としては昨今のエレクトロニカ周辺から派生した「エディット」が制作の基盤になっており音素材が一つ一つ丁寧な加工、編集を経たシンプルでバランスの取れた作品であり、彼自身も満足度の高い作品に仕上がったようだ。だからこそ常に心の奥にあった自分の音楽に対する信念のようなものが強く露呈したのではないかと思う。
現在行われているピアノコンサートツアーでは毎回この二曲が演奏されており、幾度か「energy flow」もリストアップされている。その全公演が収録されてから24時間以内にネット上で配信販売されるという試みも行われている。何も彼は躍起になってアンチテーゼばかりを唱えているのではない。今アルバムの二曲の同居に見られるアンチシズムもあくまで私の推測であって意識的に行われたことなのか結果的にそうなったのか、そもそもそんな思考があったのかも定かではない。だが確かに混在する絶望と希望の間で彼が見出そうとしているのは間違いなく素晴らしき音楽(音楽家)の未来だろう。なぜならこうやって新しい音楽家が生き残る為のモデルケースを作るべくして自ら「希望」を生み出そうと邁進を続けているからである。