鳴らされている音楽と鳴っている音楽

以前何の気なしにツイートしたこの二つの音楽の違いについて少し説明してみようと思う。
まず音楽ではなく音についてだが、例えば自動改札機にIC乗車券で触れた時に、またはお店のレジで商品バーコードなどを読み取った時に鳴る「ピッ」という音がある。あれを人はあまり鳴らされているという意識で聴いていないのではないだろうか?だが、あれは機械が「ピッ」と鳴っているのではなく、センサーが信号を認識した時にあの音が出るように人が仕向けたものなのである。あの音自体も人が信号音から生成したもので元々機械が持っている音ではない。それを私たちは普段あまり意識せずに自分の持っていたカードや商品を機械が認識したから「ピッ」と鳴っていると思う(だろうきっと)。これが私の言う所の鳴っている音(音楽)である。つまりは人が何らかの思惑をもって作ったのにも関わらず受け手があまりそういう意識を持たずに聴くことが出来る音(音楽)を鳴っている、と表現したのである。普段の生活の中で鳴っている音はほとんどが鳴らされているのである。にも関わらずそれらが人為的に聴こえないという現象を音楽作品に反映させているものを私は何故か好んで聴いてしまう傾向にある。それは耳から脳に伝わって咀嚼されるのではなく、耳の中で浮遊して体全体を巡るような感覚に陥るからである。私はそういう音楽を作りたいと常々思いながら制作に勤しんでいる。なぜならそうした表現方法に音楽の新しい可能性を感じるからである。全てが新しければそれで良いわけではないが、人が人為的に作ったものをそうだと分かっていながら聴いたり作ったりしていることに、あまり創作意欲が湧かなくなっているのだ。それは私が音楽を作る側にいるから余計に意識してしまうのかもしれないが、そうした鳴らされた音楽が未だに日々星の数ほど作られていて世界中で鳴らされているわけである。もちろん鳴らされている音楽も人がどういう音を聴けば感動するか研究を重ねてきた歴史があり、今でも衝撃を受けることもある。鳴っている音楽だって、そういった歴史の上に成り立っていることは確かである(だって、鳴らされている音楽だってかつては鳴っている音楽だったのだから。そう、鳴らされている音楽とは既成の概念で作られた音楽のことだったのだ)。ただ比率としてあまりにも鳴っている音楽が作られることが少なく、そして多くの人の耳に届いていないように思えるのである。そこに気づいて欲しくて躍起になっているという節も実はある。鳴っている音楽が鳴らされている音楽より優れているということでもない。ただこの未知なる音楽の段階へ踏み込もうとしている創意にもう少し耳を傾けてもいいのではないかと思うのだ。それらはちょっと聴いただけでは音楽と認識しにくいのかもしれない。だからといってすぐに既存の音楽に戻ってしまわずに、今一度鳴っている音楽が自分にどういった感覚をもたらすのか確かめて欲しい。なにもそこで小難しい音楽論を展開する必要もないし、しばらく聴いても受け付けないのならそれはそれで仕方ない。ただこういった鳴っている音楽に創意を傾ける音楽家によって鳴らされている音楽が日々更新されていることも知っていて欲しいのだ。なぜなら、鳴っている音楽が鳴っている時間というのは、ほんの短い一瞬のものであって方法論が普及すればたちまち鳴らされている音楽に成り代わってしまうからだ。発見は一夜にして浸透し、次の朝には既存の一部になってしまうのである。そういう意味では鳴っている音楽を作り続けている音楽家ははかなくも短い命を謳歌する花のようで美しいと思ってしまう。辺り一面に咲く花畑よりも時には荒れた土地に咲く一輪の花が綺麗に見えることがあるように、鳴らされている音楽だけではなく鳴っている音楽にも人が感動しその感動を分かち合えるだけの受け手が存在すれば、その一瞬一瞬がどれだけ有意義で報われたものになるだろうか。さらにはその一輪の花に水をあげるものがあれば、誰にも見つけられずに枯れて無くなってしまった花がどれだけ救われるのだろうか。その花が種を飛ばす力を持っていれば花はまた咲くだろう、しかしそこにただ咲くことしかできない花もあるのではないだろうか。。

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後半の花のたとえは何ですか一体。ちょー気持ち悪いんですけど。。