shotahiramaのpost punk以降 - 1.000000000000000000...の音響世界 改訂版

nyaaaaaaano2014-09-27

Ryoji Ikedasupercodex)によって1(100000…)から0へ還元された音響はshotahirama(post punk)によって再び1(1.00000…)へ増幅された。
しかし再び生成される1はもともとの1とは全くことなる何とも抽象的な音響であった。
それはあるカラー写真画像のコントラスト数値をあげて白黒にしてしまったものをもう一度数値だけ無理矢理下げたような決して元には戻らないノイズの染みのような。
Ryoji Ikedaの近作supercodexのジャケットデザインは作品自体を視覚化したかのように思えるが、実はこの作品以降の音響世界を表現しているのではないか?結果論に過ぎないが、今作を含む氏のDataシリーズ3部作(dataplex,test pattern)のジャケットを並べてみるとそれぞれが次の作品を表しているように思えてくる。
つまり氏は、supercodex以降の電子音響がカオス化することを予見していた、もしくは自身の次回作でカオス化させようと考えていたと推測することが出来る。
ノイズを制御することでテクノが終焉し、エレクトロニカという新しい電子音楽が誕生してから何となく頭の片隅にあったこのカオス化というムードをshotahiramaのpost punkから強く感じた。
それは決して理路整然としていない。
無秩序、無作為の中にある自意識とデジタルテクノロジーが織りなす即興物。
ここで音響作家という作り手が従来の作曲からまた一つ解放されることとなった。
そこにもはや高低域を強調し中域でバランスをとる既存のグルーヴなどは存在しない。
ノイズはノイズとしての機能を失い、ノイズ以外の音色と同等の存在意義を有する。
エレクトロニカはこうして旧式となって行くのだ(当然テクノはとっくに死んでいる)。
そしてメインストリームに君臨し続けたダンスミュージックも一旦退くことになる(これは私の希望である。少なくともエレクトロアコースティックの分野においては一瞬かもしれないが文献上消失するであろう)。
それ以前の硬質なビート音楽はもれなく無感動に摂取され、生活音に取り込まれ、つまりは俗世間にまみれていく。
この交代劇における新しいカオスミュージックの重要な点は一定のビートを携えたダンスミュージックではないというところ(コンテンポラリーダンスなど一般的でないダンスを除く)、さらにテクノにおけるアシッドサウンドに対してのチルアウトサウンドというように、ノイズを同じように制御しているエレクトロニカグリッチ、クリックビート)と相対関係にあるものでもないというところである。
このように音楽の歴史を踏襲するものでありながら、その流れを一度分断してしまっている点において、バロック以来の新しい音響、ハーモニーが作られたとも考えられる
しかしながらshotahiramaのpost punk、次作のClampdownはまだ完全な未知の音響/グルーヴを配したカオスミュージックとは言えなかった。意図的にであろうが、既存の音響やビートが断続的に露見されるような構成になっている。もしかしたら、そうすることによって過去の音楽から未来の音楽への移り変わりを表現しており、またそういった既存の音が素材として活用されていることも種明かしでもするかのように、あえて断片的に0から作られた1を介在させているのかもしれない。そうすることで前者の1と後者の1が明らかに異なるものだということを強調しているのではないだろうか。
shotahiramaの音楽が多いにカオス化したのはその次にリリースされたClusterからである。このアルバムに収録された楽曲郡は全ての楽曲が同じような構成で、それに呼応するエフェクト効果が異なった6曲(6バリエーション)で構成されている。この構成はバッハの平均率クラヴィーア曲集を想起させる。あらゆる調に対してその和音の響きと相対する旋律を編み出し、バリエーション化したように、左記のアルバムも編まれたのではないだろうか。
ところで私はこれらの彼の作品がどこまでフィジカルにコンポーズされているのか知らない。
もしかしたら一音一音キーボードかサンプラーアサインされて手弾きされているのかもしれない。もしそういった方法で作られているとすると話はだいぶ変わって来てしまう。ともすれば私が考えているよりずっとアグレッシブにクラブ文化に根ざそうと意図したダンストラックという可能性もある。ネット上で観れるプロモーション映像からはそういったニュアンスも受け取れる(ライブ時はオーディエンスのことを考えて既存のビートを強調させているのだろうか→オウテカ的な作品とライブの差別化)。
私の言うカオスとはあくまで作者の意図に反したコンピューターがもたらすランダム性やバグ、エラーなど人間が制御できない領域を作曲の方法論に組み込むことで生まれたエレクトロニカ以降のノイズで構成されたミニマルミュージックのことである。それらがある一定のリズム(いわゆる8・16ビート)で統制された時点でどんなに精査されたノイズで構成されていたとしても私の思う新しい音響とはかけ離れた既存のダンスミュージックになってしまう。
この論考は私の推測が多分に含まれているものであり、おそらく彼の音楽を構成するものが完全に作り手の作為的な演奏や編集におけるものではないという前提で語られているということを補足しておこう。
shotahiramaのこれらの作品のおかげで、同じような方法論を先送りにしていた幾人かの作り手が再びそのやり方を模索し始めているように感じる。
それらがこの先、どこまで音楽として受け入れられるのか、またそれ以降の音楽にどのような影響を与えるのかわからない。
私のような者が「これは新しい音楽である」と宣言したところで、耳を傾ける受け手は微々たるものであろう。
だが、彼が打開いたのは作り手ならば誰もが加勢したくなる新しい音響ムーブメントの入り口に他ならない。
まだ動き出して間もない音響ムーブメントであるものの、ある時期に一斉に拡散することも考えられる。
唐突に私事で恐縮ではあるが、少なくとも私はパクりと言われてでも微力ながら加勢したい思いでいっぱいである。
先日ある音楽仲間の録音に参加し、その音源を使用して制作した13バージョンのリミックスは、いかにも先送りにしていた方法論でエフェクト・ノイズを敷き詰めたカオスミュージックである。
天文学的な確率で誰かの耳に留まることを願ってやまない私は、近いうちに次のアルバムの為に制作した新曲もいくつかネット上で発表することだろう。
断っておくと、これらは新しい音響表現であり、新しい音(音色)ではない。
新しい音など今まで一度も生まれていない。
太古の時代から音は音であり続けている。
私たちはそのアーカイブにダイブして1や0を作っている。

※改定前
http://d.hatena.ne.jp/KNS/20140924/1411519852