誰がAmetsubを殺したのか - エレクトロニカ進化論(仮)・序 - ツイートまとめ&増補改訂版

Ametsubを理解せしめんと。
誰が為に音は響る。。


以前あるブログでエレクトロニカがせわしないカットアップ音楽に成り下がったと書いたことがあるのだが、その瞬間にまず頭に思い浮かんだのがAmetsubというアーティストだった。だが世間的にはAmetsubこそがエレクトロニカであって広く受け入れられるべき電子音響なのだ。その点においては、僕が間違っているような気がするし、Ametsubの音楽を「せわしない」の一言で片付けてはいけないと考え、気付くと、僕は一体音楽の何を聴いているんだろう?と自問自答を繰り返していたわけだが


ところで「せわしないカットアップ」という言い回しは実はマッシュアップというDJ文化の延長にあるようなムーブメントに出くわした時に思いついたもので、その実演動画を観て、こんなものが共有されてちやほやされているのか?という嫉妬的な憤りの末に出た「せわしなっ!」という憎まれ口がそれなのだが


そのせわしなさをはっきりとAmetsubの音楽に感じたのかと問われれば、実際にそのような印象を直接受けた記憶も無く、いつからAmetsubマッシュアップのようなものを一緒くたにしてしまっていたのかも思い出せない。図らずもAmetsubが僕にとって何らかの音響的な象徴であったことは確かなのだが


マッシュアップエレクトロニカを「せわしないカットアップ」で結び付けてしまった一つの要因として、それらを制御しているMIDIコントローラを操作する姿にあるように思う。矢継ぎ早に様々な曲・ループをパッドに割り当てたり、リアルタイムで叩いたりする手法なのだが


そういった印象をAmetsub以降、ゼロ年代の和製エレクトロニカに持っていた。だが驚くべきことに、AmetsubはそういったMIDIコントローラの操作によるライブ演奏をしていないのである(そもそもライブを観たことも無い)。すなわち僕はAmetsubに違和感を感じたのではなくAmetsub周辺の音響ムーブメントを疑っていたことになるのだが


何故今このようにしてAmetsubにまつわる記憶を辿っているのかというと、AORというユニットのデビューEP「ONE」の宣伝文の中に「Ametsub, shotahirama 以降の電子音楽はこうなっていくのではないか」というフレーズを見つけたからなのだが


その時に、先入観を取り払ってAmetsubを聴き返してみても、私の抱いた「せわしない」という感情は強固な不理解となって脳内にこびり付いて離れなかった。いや、頭では分かっているのに体が、聴覚がそれを拒否してしまうのだ。私のゼロ年代エレクトロニカに対する不理解はアレルギーと化し、もはや指先で扱われる心地よいBGMにしか聴こえなくなってしまっていたのだが


テクノがその指先を介して脳とサウンドを直接繋いでいたのならば、それがいつのまにかテクニック化して行ったのではないかというのがその頃の和製エレクトロニカに対する見解であった。そんな状況を「エレクトロニカフュージョン化」と言い表したのがzoo tapes主宰の佐々木秀典氏なのだが


果たしてその表現が私のせわしないという感情と一致するものなのか定かではないが、フュージョン化を経たエレクトロニカにとってネット社会の多様性やルーツを掘り下げない若者リスナーの感性は人レベルを超えた細分化を推し進めるカンフル剤であった。そして和製エレクトロニカはやがてせわしないという感情では計り切れないほどにカオス化し、テン年代に入って一つの終焉を迎えることになるのだが


そのサウンドのせわしなさはともかくも、細分化が進んで情報過多になりつつあるエレクトロニカに終止符を打ったのは、90年代すでにサイン派によるダンスビートを完成させ、テン年代を迎えてもエレクトロニカの最先端で居続けた音楽家池田亮司である。彼はゼロ年以降あらゆるジャンルや表現手法へ飛び火して行ったエレクトロニカサウンドを半ば強引に圧縮し、再び電子ノイズに還元することでエレクトロニカをゼロ地点へ収束させたのだが


その真逆の方法で情報カオス、無意味化寸前のエレクトロニカを粉微塵にしリサイクルでもするかの如く再構成し、私が抱いたせわしなさをも増幅させ、それ自体を新たなビート/グルーヴにしてしまったのがshotahiramaである。この16ビートからも解放された新たなミニマルミュージックはもはやポストエレクトロニカとしか定義できない(すなわちエレクトロニカではない)のだが


つまりはそのせわしなさ無くして新しい音響表現は生まれ得なかったということではないだろうか?私はその新たなものへの経緯を文字通りのノイズと捉えてしまっていたのかもしれない。結果的にマッシュアップがもたらすせわしなさとは似て非なるものでもあったわけだが


エレクトロニカが収束し電子ノイズがノイズ以外の音色と並列化した現在、改めてAmetsubが醸し出した「せわしなさ」が、決して文字通りのノイズではなく嫌悪の対象でもない、テクノ以降の電子音楽エレクトロニカ以降の新たな音響世界へ導く「予兆的グルーヴ」だったということに気付かされるわけだが


今その解釈を経て再び繰り返される

僕は一体音楽の何を聴いているんだろう?

みなさんは一体音楽の何を聴いているんですか?

shotahiramaのpost punk以降 - 1.000000000000000000...の音響世界 改訂版

nyaaaaaaano2014-09-27

Ryoji Ikedasupercodex)によって1(100000…)から0へ還元された音響はshotahirama(post punk)によって再び1(1.00000…)へ増幅された。
しかし再び生成される1はもともとの1とは全くことなる何とも抽象的な音響であった。
それはあるカラー写真画像のコントラスト数値をあげて白黒にしてしまったものをもう一度数値だけ無理矢理下げたような決して元には戻らないノイズの染みのような。
Ryoji Ikedaの近作supercodexのジャケットデザインは作品自体を視覚化したかのように思えるが、実はこの作品以降の音響世界を表現しているのではないか?結果論に過ぎないが、今作を含む氏のDataシリーズ3部作(dataplex,test pattern)のジャケットを並べてみるとそれぞれが次の作品を表しているように思えてくる。
つまり氏は、supercodex以降の電子音響がカオス化することを予見していた、もしくは自身の次回作でカオス化させようと考えていたと推測することが出来る。
ノイズを制御することでテクノが終焉し、エレクトロニカという新しい電子音楽が誕生してから何となく頭の片隅にあったこのカオス化というムードをshotahiramaのpost punkから強く感じた。
それは決して理路整然としていない。
無秩序、無作為の中にある自意識とデジタルテクノロジーが織りなす即興物。
ここで音響作家という作り手が従来の作曲からまた一つ解放されることとなった。
そこにもはや高低域を強調し中域でバランスをとる既存のグルーヴなどは存在しない。
ノイズはノイズとしての機能を失い、ノイズ以外の音色と同等の存在意義を有する。
エレクトロニカはこうして旧式となって行くのだ(当然テクノはとっくに死んでいる)。
そしてメインストリームに君臨し続けたダンスミュージックも一旦退くことになる(これは私の希望である。少なくともエレクトロアコースティックの分野においては一瞬かもしれないが文献上消失するであろう)。
それ以前の硬質なビート音楽はもれなく無感動に摂取され、生活音に取り込まれ、つまりは俗世間にまみれていく。
この交代劇における新しいカオスミュージックの重要な点は一定のビートを携えたダンスミュージックではないというところ(コンテンポラリーダンスなど一般的でないダンスを除く)、さらにテクノにおけるアシッドサウンドに対してのチルアウトサウンドというように、ノイズを同じように制御しているエレクトロニカグリッチ、クリックビート)と相対関係にあるものでもないというところである。
このように音楽の歴史を踏襲するものでありながら、その流れを一度分断してしまっている点において、バロック以来の新しい音響、ハーモニーが作られたとも考えられる
しかしながらshotahiramaのpost punk、次作のClampdownはまだ完全な未知の音響/グルーヴを配したカオスミュージックとは言えなかった。意図的にであろうが、既存の音響やビートが断続的に露見されるような構成になっている。もしかしたら、そうすることによって過去の音楽から未来の音楽への移り変わりを表現しており、またそういった既存の音が素材として活用されていることも種明かしでもするかのように、あえて断片的に0から作られた1を介在させているのかもしれない。そうすることで前者の1と後者の1が明らかに異なるものだということを強調しているのではないだろうか。
shotahiramaの音楽が多いにカオス化したのはその次にリリースされたClusterからである。このアルバムに収録された楽曲郡は全ての楽曲が同じような構成で、それに呼応するエフェクト効果が異なった6曲(6バリエーション)で構成されている。この構成はバッハの平均率クラヴィーア曲集を想起させる。あらゆる調に対してその和音の響きと相対する旋律を編み出し、バリエーション化したように、左記のアルバムも編まれたのではないだろうか。
ところで私はこれらの彼の作品がどこまでフィジカルにコンポーズされているのか知らない。
もしかしたら一音一音キーボードかサンプラーアサインされて手弾きされているのかもしれない。もしそういった方法で作られているとすると話はだいぶ変わって来てしまう。ともすれば私が考えているよりずっとアグレッシブにクラブ文化に根ざそうと意図したダンストラックという可能性もある。ネット上で観れるプロモーション映像からはそういったニュアンスも受け取れる(ライブ時はオーディエンスのことを考えて既存のビートを強調させているのだろうか→オウテカ的な作品とライブの差別化)。
私の言うカオスとはあくまで作者の意図に反したコンピューターがもたらすランダム性やバグ、エラーなど人間が制御できない領域を作曲の方法論に組み込むことで生まれたエレクトロニカ以降のノイズで構成されたミニマルミュージックのことである。それらがある一定のリズム(いわゆる8・16ビート)で統制された時点でどんなに精査されたノイズで構成されていたとしても私の思う新しい音響とはかけ離れた既存のダンスミュージックになってしまう。
この論考は私の推測が多分に含まれているものであり、おそらく彼の音楽を構成するものが完全に作り手の作為的な演奏や編集におけるものではないという前提で語られているということを補足しておこう。
shotahiramaのこれらの作品のおかげで、同じような方法論を先送りにしていた幾人かの作り手が再びそのやり方を模索し始めているように感じる。
それらがこの先、どこまで音楽として受け入れられるのか、またそれ以降の音楽にどのような影響を与えるのかわからない。
私のような者が「これは新しい音楽である」と宣言したところで、耳を傾ける受け手は微々たるものであろう。
だが、彼が打開いたのは作り手ならば誰もが加勢したくなる新しい音響ムーブメントの入り口に他ならない。
まだ動き出して間もない音響ムーブメントであるものの、ある時期に一斉に拡散することも考えられる。
唐突に私事で恐縮ではあるが、少なくとも私はパクりと言われてでも微力ながら加勢したい思いでいっぱいである。
先日ある音楽仲間の録音に参加し、その音源を使用して制作した13バージョンのリミックスは、いかにも先送りにしていた方法論でエフェクト・ノイズを敷き詰めたカオスミュージックである。
天文学的な確率で誰かの耳に留まることを願ってやまない私は、近いうちに次のアルバムの為に制作した新曲もいくつかネット上で発表することだろう。
断っておくと、これらは新しい音響表現であり、新しい音(音色)ではない。
新しい音など今まで一度も生まれていない。
太古の時代から音は音であり続けている。
私たちはそのアーカイブにダイブして1や0を作っている。

※改定前
http://d.hatena.ne.jp/KNS/20140924/1411519852

バクマンの真面目な批評

みなさんはあの作品の革新的な側面をどれほど理解して読んでいるのでしょうか?
バクマンはジャンルに分けると大まかには”漫画家マンガ”ということになるでしょう。
古くは「まんが道」、最近では「アオイホノオ」がこのジャンルに相当すると思われます。
ここで既に、バクマンは左記の2つの作品とは明らかに違う点があります。
それは"作者の実話を元に書いたシナリオではない"ということです。
まんが道」も「アオイホノオ」もそれぞれ作者が漫画家になるまで(漫画家になってから)の日々の生活や漫画にまつわる経験をベースにしていますが、バクマンに関しては多少なりとも経験があるからこそ書ける部分もあるのでしょうが、あくまで架空の少年二人(実際にこの作品自体、原作者と作画者の二人で作られていますが、二人が学生の頃から漫画家ユニットとして活動してきたという事実があるわけではありません)が漫画家として活躍するという設定で書かれています。
この点が違うことで何が変わるかという問題ですが「まんが道」「アオイホノオ」に共通して使われている、実際に存在する過去の漫画作品を模写し”作者自身が影響を受けたという表現を既存の漫画を自分の作品の中に取り込んで表現する”という方法をバクマンは(まったく使っていないわけではないが、作品の表現効果としてはまったく)使っていないのです。
この表現方法は漫画家マンガには欠かせない技法の一つなのです。
まんが道」に関しては、ほぼ一作品丸々他の漫画家の作品を模写しているケースもあります。
ですが、バクマンは代わりに架空の作品を引き合いに出して「まんが道」や「アオイホノオ」のそれと似たような表現を賄っています。
ここが今までの漫画家マンガにはあまり見られなかったオリジナリティではないかと思います。
そしてバクマンがフィクションとして書かれている理由がもう一つあります。
それは、今の漫画業界に対してのアンチテーゼ的な表現を作品の中に盛り込みやすいという点です。この作品は週刊少年ジャンプで連載されていましたが、人気連載にも関わらず、登場人物が少年ジャンプの編集部に対して”効率的、機能的でない点などを具体的に指摘”(同時に漫画編集者の献身的な部分なども描かれています)していたりします。
こういった行為は作品がフィクションであるからこそ自然に盛り込む事が出来る表現であり、漫画業界に対する批評文をどこかで長々と書いたりするよりも効果的であると言えます。
もう一つ、この作品で注目すべき点は、作品のストーリー、登場人物の特徴です。
バクマンの原作者はかつて作画も兼ねて、少年ジャンプで連載作品を持っていたのですが、思うような人気を得られず短期間で打ち切りにされてしまう(バクマンの前作「デスノート」でこのタッグでは既に成功を収めていますが、あれは僕の見解ではシナリオが途中で破綻したと思っているのでここではあまり触れないことにします)という苦い経験をしています(バクマン本編にも思い半ばにして漫画家を諦めるキャラクターが出て来たりします)。
その経験から原作者はどうすればこの日本一の少年漫画誌で人気連載漫画を作り出す事が出来るのか徹底的に研究をしてこの作品制作に臨んでいるのです(その研究過程さえもストーリーの中にうまく盛り込んでいます)。
原作者はまず自分の作画技術に見切りを付け、他の作画者に絵を委ねることにしました。そして原作ストーリーはかつて少年ジャンプで人気を獲得して来た作品のベースや設定などを踏襲しながら練られているのです。そう、このバクマンの中で語られている人気漫画を作るハウトゥー談義がそのままバクマンの物語形成に活かされているのです。
たとえば人気ジャンルの一つとしてバトル漫画があることを何人かの登場人物が発言していますが、バクマンは主人公二人が他の新人漫画家たちとの人気競争の中で漫画家として成長して行くバトル漫画の要素を持っています。
それからもう一つ人気ジャンルとして挙げられる恋愛もの、これもバクマンのストーリーのもう一つの軸として漫画バトルと並行して進行しているのです(しかもわかりやすいくらいピュアネスを誇張したようなエピソードが複数展開されています)。
その他にもライバル漫画家同士の助け合いに見られるスポ根的な要素や、ギャグ漫画のようなユーモアも随所に盛り込んでいます。そして登場人物のキャラクターもいわゆる王道パターンに沿って作られています。
例えば主人公のライバル漫画家の中に熱血的な人物がいたり、負けん気が強いのに実はとても繊細な人物がいたり、もちろん典型的な天才少年漫画家も登場します。特にその天才少年は所々で重要な発言をすることで、何となく今後のストーリー展開を示唆する役割を担ったりしているのです(編集者の中にも何人か似たような役割の人物がいます)。そういった何かを悟ったような人物は人気漫画に少なからず登場するキャラクターです(ドラゴンボールでも亀仙人やカリン、神、界王など悟空の成長に合わせ様々なストーリーテラー的存在が登場します)。
このように作品の中で人気漫画のセオリーについて議論させながらバクマンそのものがそのセロリーに沿って進行して行くという実験性に富んだ漫画作品であるわけです。

2012年08月15日のツイート

2012年08月14日のツイート

2012年08月13日のツイート

2012年08月12日のツイート