しんぼる

松本人志第二回監督作品「しんぼる」を観てきました。大日本人が100点だったのに対して、しんぼるに私がつけた点数は50点です。この作品はダウンタウンが新しい笑いを提示してから(いやそれ以前から?)今に至るまでの笑いのエッセンスが踏襲されており、その笑いの歴史のようなものが海外に向けても上手くアナウンスされるように作られています。それが僕には”可もなく不可もなく”という印象を与えたのではないかと思いました。つまりは日本の笑いのレベルは今ここまで来ていて、映画的な時間(尺)を使ったフリからオチに至るまでにこれだけ笑いを詰め込むことが出来る(一つのテーマに対して、これだけ笑いの解釈を見出す能力を持っている)ということを海外に向けて示したのです。
さてここからは映画の内容に触れながら書くことになってしまいますが、作品で言うところの”しんぼる”とは男性器のことで、四方を取り囲む白い壁に散りばめられた”天使のしんぼる”を指で押すことで飛び出してくる様々なアイテム(さいばし、壷、まぐろ寿司、しょうゆ、拡声器、蝿たたき、ガムテープ、台車、など)や、作動する仕掛けを使って何とかその部屋を脱出しようとする主人公の様子がプロットの一つとして進行するのですが、その行為がやがて世界中のあらゆる事象にシンクロするという一つのオチへ帰結したあと、主人公がたどり着いた場所にあらわれた巨大なしんぼるを押そうとしたところで映画は終わります。お笑い芸人として一つの笑いを提供した挙句に、我々受け手に新たなテーマ(お題)を提示してこの映画は終わるのです。今まで自らに鞭打つようにお題を与え、自ら答えを出すことで作品を作り続けてきた彼が、ここへ来て新たな笑いを生むチャンスを放棄し、我々に問題提起をして終わらせるという行為は僕にとっては衝撃的なことでした。この行為から僕は、彼の新しい笑いに対する意欲の喪失を感じました。しかし思い返してみれば、この作品はあらゆる箇所を受け手の想像力に委ねています。例えば主人公がなぜあの部屋に閉じ込められたのかその説明は一切ありません。今までの彼ならそういうキャラクターの経緯みたいなものを笑いの一つの要素として利用しなかったことは無いでしょう。あの伝説のコント「トカゲのおっさん」ですら、おっさんがどのようにして生まれたのかまで説明していたのですから。しかし、しんぼるの主人公に関してはある程度の境遇を匂わすものの、それも直接笑いに繋がることはありません(ただ一つ、あの派手なパジャマに関しては、部屋で目覚めてから終始気にかける様子がなかったことから主人公の自前だったという推測ができるという点はいかにも松本的な笑いであります)。このようなことから考えると「しんぼる」は世界に向けての”笑いの総括”であると共に日本に向けてのこれまでの”笑いの封印 ”(彼がテレビを使って生み出した笑いの)だったのです。果たして巨大なしんぼるは誰に出されたお題だったのでしょう?次の自らの作品(映画)への新しい笑いのお題なのでしょうか?それとも新しい笑い(テレビ、映画、その他あらゆるメディアの笑い)の創造を次世代の作り手に委ねるものだったのでしょうか?私にはその両方のメッセージが含まれているように思えます。いずれにしても、もはや今までの笑いは、少なくとも松本人志の前では笑いとして機能しないことになったということです。これは松本人志自身にとっても過酷な試練でありますが、ダウンタウン以降の笑いがここまで染み付いた日本のクリエイティブ全体にとってもかなり過酷な試練であります。ただ、そうまでして否定しないことにはおそらく何も生まれないことを彼は覚ったのでしょう。そんな彼を見ていた者ならば何となく気付いていることでしょうから、この作品をべた褒めすることは出来ないと思います。ただこれ自体を全く何の発展も無いと否定することも出来ない(そこを踏まえた作品であるから)、そんな中間的なものだと思います。そういう意味でこの映画は僕の中で「50点」なのです。
余談ですが、清水靖晃という人が手がける音楽が素晴らしいです。特にエンディングが。劇中のクライマックスで流れるアンビエントハウス調の曲も。サントラは買いです。